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人生はどんな小説よりも奇なり

フィンランド帰国前に大きな出来事がありました。

どこから始めて良いかもわからない話ですが。

以前、人生の選択を迫られていると書いたブログがきっかけです。

とうとう、今まで知らなかった自分と父の過去に辿り着きました。

色々な運命の巡り合わせがあり、思いもよらないエンディングを迎えました。

パンドラの箱を開ける!

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きっかけはブログを読んでくれた友人からの後押しでした。

母の結婚当初の戸籍で父の名前を見て、自分のルーツを探ってみたくなったのは事実です。

小学校入学と同時に離婚した父と母、私には父の記憶がほとんどありません。

幼稚園の頃から祖父母のもとで育てられており、写真も離婚と同時に全て処分されました。

祖父母が私を子供のように育ててくれたので、子供ながらに離婚の話をしてはいけないのだと感じていました。

大学生になって勇気を振り絞って祖母から聞いた離婚の理由は。

父が定職につかなかったこと、母が不憫だったので引き取った、ということでした。

父の存在。。。

man hugging the baby in blue floral fitted cap during daytime
Photo by Josh Willink on Pexels.com

その後も父の存在はずっと気になっていながらも、祖父母にも、母にも言い出せないまま日々が過ぎました。

そして5年前に祖父、昨年、母が亡くなり、改めて思い返した父の存在。

今だったら、私が父を探しても祖父母も責めないのではないか、という気持ちが湧きました。

今回の帰国でも、気にはなってはいました。

それでもまだ70歳そこそこなので、しばらく元気だろうとタカをくくり。

そして父にとっての私の存在が消したい過去だったら、と恐れ、一歩踏み出す勇気がありませんでした。

そこで背中を押してくれたのが友人でした。

この友人の存在が無かったら、父の人生を知ることもありませんでした。

感謝しかありません。

そんな彼女が提案してくれたのは。。。

興信所に電話をかける

最初に聞いたときは、えー!無理無理!と思いましたが、彼女のすごい気迫と勢いに負けてまず電話をしてみました。

人探しなどしたこともないので、どこから手をつけて良いかもわからずとりあえず事情を説明しました。

電話越しからは、生きてることがわかっているのなら、戸籍の附票なるものを取り寄せれば現在の住所がわかる、ということでした。

とりあえず、よくは分からなかったものの父の本籍が新潟だったので、新潟から戸籍の附票を取り寄せました。

そこから割り出された住所は、なんと沖縄!

以前、父と母が短いながらも住んでいた地でした。

何よりもびっくりなこと。。。

okinawa island in ocean
Photo by Spacy Goody on Pexels.com

なんと!

自分自身も、2週間前に沖縄行きのチケットを手配していたのです。

その理由は。

後押ししてくれたフィンランド時代からの友人が沖縄に住んでおり。

彼女もこの夏には沖縄を離れるので、この機会を逃したら沖縄に遊びに行けなくなると思ったからです。

父のことなど考えていなかった時から決めていた沖縄旅行に、最後のパズルがぴったりとハマりました。

何かに導かれているようで、背筋がゾクッとした瞬間でもありました。

それと同時に気付いた除籍、の文字。

除籍、つまり新潟から籍が抜けているといことです。

除籍の理由は様々ありますが、女性だったら結婚、そして死亡も理由のひとつです。

友人たちと調査をした結果、本籍を移しても除籍になるので、もしかしたら長く沖縄に住んでとうとう籍を移したのかねぇ、なんて話をしていました。

最初にもらった戸籍にバツがしてなかったこと、若いのでまさか死亡していることはないだろうと思っていたので、次に除籍謄本なるものを新潟県から取り寄せました。

除籍謄本からわかったこと

除籍の理由は。。。

残念ながら。

死亡でした。

5年前2018年の3月9日、69歳の若さで父は天国に旅立っていました。

取り寄せた戸籍にバツがなかったことから、まさかこの世に存在していない、という結果に終わることは想像しておらず。

もしくは想像したくなかった、というのが正しい表現でしょうか。

思い出も、記憶もない父でしたが、一目会ってありがとう、と伝えたかった。その願いが叶わなかったことを突きつけられた瞬間でした。

悲しみ、というか胸にポカーンと穴が開きました。

生きていたらどのように会いにいこう、手紙をまずは送ろうか、などと考えていたのがガラガラと崩れ去っていきました。

あー、ひとりぼっちなんだな、と改めて感じた瞬間でもありました。

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それと同時に死亡届出人のところに、家屋管理人と書いてあることにも気付きました。

アパートで孤独死したのではないか、人生に疲れて自殺してしまったのではないか、など悪い考えが頭をよぎり。

住所がわかった時点で、どんなアパートかも調べており、25㎡の小さな部屋だったこともわかっていました。

そんな小さな部屋で、誰にも看取られずに寂しく死んだのかと思うといたたまれない気持ちになりました。

それでも、勇気をふりしぼって。

最後に父がたどった足跡を辿るため沖縄へ向かいました。

いざ沖縄へ

その時持っていた情報は、最後に父が住んでいた住所、不動産会社、そして死亡届出人の名前。

とりあえず、住んでいたアパートに行けば父のことを知っている人から話を聞けるかもしれない!誰かが父の写真を持っているかもしれない!そんな思いで向かいました。

那覇にある3階建の古いアパートを見て、父が最後に過ごした場所がここなのかと思うと切なくなりました。

部屋の外には洗濯機が置いてあり、呼び鈴さえもないようなアパートで、外の金属棒は錆び付き、なんとも物悲しい場所でした。

薄っぺらいドアをノックして声をかけるも、ほぼほぼ誰からも返事がなく開けてくださった方も父の存在は知らないと言われ。

父がかつて住んでいた部屋からはタバコの匂い、初老の男性。

父はこの部屋でどんな最後を過ごしたんだろう、と寂しい気持ちになりました。

一緒にいた友人も言葉にはしなくても、おそらく同じ気持ちだったでしょう。

それでも気持ちを切り替えて。

今の私たちにできること。

アパートを管理している不動産屋さんと、死亡届出人の所在からわかることは。。。

そこで除籍謄本を再度見た時に友人が気付いたのは、死亡時刻が書いてあること、でした。

父が最後に過ごした場所

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家で死亡しているのだったら推定時刻はあっても、死亡時刻ではない!こんなちゃんとした時間が書いてあるのだったら病院で死んだのではないか?ということでした。

届出人の人の名前を探した時に見つけたのは、キリスト教関係だということ。まさか、その人ではないかと思って深く調べてはいませんでした。

もう一度友人とともに調べてみたところ、その人は病院の理事長をしていることがわかりました。

父が最後を過ごしたのは病院だったのかもしれない!

不動産屋さんに行って、死亡届出人が管理人でも所有者でもないことが判明しました。

となると。

ますます可能性が高いのは病院か?!

最後の手がかり、病院へ

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Photo by Wendy Wei on Pexels.com

このご時世、やはり個人情報に関してはそうそう簡単に教えてくれることもないだろう、と予想はしていました。

念のため、自分の戸籍、父の戸籍、身分証明書などを持っていざ出陣。

どのように話したらいいかもわからず、まごまごしながら受付の人に事情を説明しました。

ありがたいことに、対応してくれた事務の女性がとても優しく話を聞いてくれました。

とりあえずは、本当にこの病院に入院していたかどうかもわからないから、確認をしたいと待つこと10分程度。

ドキドキしながら待っていました。

その結果は。

ビンゴ!

訪問したこの病院で父は息を引き取ったのでした。

心に重くのしかかった不安や心配が一瞬にして消え去りました。

事務の方によると、家族であればカルテ開示をお願いすることもできるとの提案が。

こんなにポンポンと話が進むことにも驚きを感じつつ。

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どんな人生を父が辿ったのか知る手がかりにもと、カルテ開示をお願いすることにしました。

カルテだけでなく緊急連絡先など父に関してわかることがあれば何でも知りたいと伝えました。

小さなアパートから始まった父の足跡を追う旅が、予想外にも進展し、父が最後の時間を過ごした病院にまで辿り着けました。

曇天の中、不安とともに出発した旅が、病院に着いた頃には太陽も顔を出し、気持ちも軽やかに終わりを迎えられるとは。  

この病院の緩和ケアで、多くのお医者さんや看護師さんに見守られながら息を引き取ったのであれば、父も幸せだったのではないか、と思えました。

突然の病院からの電話

翌日はミッションコンプリートの気分で気分も軽く、最後の沖縄時間を楽しんでいました。

そこに突然かかってきた病院からの電話。

カルテの開示の前に、父のお兄さん、叔父が直接私と話をしたいということでした。

突然の叔父の登場にびっくりしたものの、快諾しました。

父に兄弟がいることは知っていましたが、今回の帰国では会うことが無理だと思ったので、次の帰国で新潟に、とも考えていた矢先でした。

新しい叔父、という重みを感じながらも、実は父に借金があって肩代わりしてくれ!などの電話だったらどうしよう、と不安も募りました。

そんなドキドキの展開の中、友人と別れ東京に戻る時間に。

彼女の存在が無ければ、父を探すことも、途中でくじけていたに違いありません。

生きているかもしれない、と信じていた時に、とにかく会いたいと前のめりになっていた私に手綱を引いて制してくれたこと。

不安になって前に進めなかった時に、背中を押してくれたこと。

ひとりでは決してここまでたどり着くことはできませんでした。

彼女が私のことを自分のことのように、もしくはそれ以上にを想い、愛を注いでくれたこと、これからも忘れません。

那覇までのバスで

友人と別れ、突然届いたメールを見ると。

woman using her smartphone
Photo by Ivan Samkov on Pexels.com

それはなんと、父の兄、新しい叔父からでした。

内容はフィンランドへ帰国する前に、東京で話がしたい、とのこと。

私に渡したいものがある、積もる話がある、など。

まさか、こんなに急に話が進むと思わなかったのでびっくりしました。

帰りのバスはメールを何回も読み返し、友人にも相談しました。

それでも、自分の気持ちにはあらがえず、会いたい!と返信。

日本での滞在も2日間だったので、もしこのまま会えなかったら、真実がわからないまま途切れてしまうのではないか、という恐れもありました。

そして、会おうと思った決め手は何と言っても。

“10年ほど前に祖父の参加した授章式の写真を見て、貴方の顔はだいたい分かっている”

という一言でした。

何よりも、父が、そして父の家族が私や母のことを未だに気にかけていたのだ、と気付いた瞬間でした。

父の私に対する想い

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父が私を探してくれていたことに、胸がジーンと熱くなりました。

私は嫌われていたわけではなかったのだと。

その授章式には、私自身は参加していなかったので、誰か別の人を私だと思って天国に旅立ってしまったのは残念ではありますが。

別の人を生き別れた娘だと信じて逝けたのなら、それはそれで幸せだったのではないか、とも思ったり。

今まで肩にのしかかっていた想い、父から本当に愛されていたのだろうか?という不安が一瞬にして消え去りました。

育ててくれた祖父母や母の愛情は痛いほど感じていました。

それでも、父からの愛情に不安を感じ、ぽっかり穴が開いている気がしていました。

その穴が少しずつ温かい気持ちで満たされていきました。

私は父からも愛されていたのだと、初めて実感し、飛行機の中では涙が溢れました。

翌日の叔父との昼食、父の思い出話は長くなってしまったのでパート2でお伝えします。

長々とお付き合いくださった皆さま、ありがとうございました。

人がひとり生きるということは、どんな小説よりも、映画よりもドラマチックです。

こんな展開を誰が予想していたでしょうか?

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