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父の歩んだ道を辿る

前回のブログに引き続き、父の生きた足跡を追います。

叔父からのメールが届いた次の日。

ドキドキしながら叔父の待つ場所へ向かいました。

出会ってすぐに叔父から出た言葉は。

“もっと早く連絡くれれば良かったのに”でした。

父の私への想い

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父は離婚した後も、私のことをずっと気にかけてくれていたのです。

思ってもいなかった一言に驚きを隠せませんでした。

10年前の祖父の授章式の写真に私がいると信じ、元気で暮らしているのだったら良いと。

特に私のことを調べることもありませんでした。

その後、父はスキルス性の胃癌を患い、2年間の闘病生活ののち、天国へ旅立ったことを知りました。

体調を崩すまでは強がって私には会わなくてもいい!と言っていたそうですが。

弱っていく中で最後に一目会いたがっていたのは私だった、ということも聞きました。

聞いていて、涙が溢れました。

離婚の後にほとんどの写真は処分してしまったそうですが、3歳くらいの私がちゃんちゃんこを着た写真だけは肌身離さず大事に持っていてくれたそうです。

最後に、大事にしていた私の写真とともに父は旅立っていったそうです。

今でも、この話を思い出すと涙が出ます。

後悔はしていない、でも。。。

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Photo by Pixabay on Pexels.com

もうちょっと早く連絡を取っていれば、私も父に会えたのかもしれない。

息子にも会わせてあげられたのかもしれない、そんなことを考え出すと悔やんでも悔やみきれません。

フィンランドへ帰るまでの2日間は、溢れる涙を止められませんでした。

それでも。

父を探すことは、育ててくれた祖父母を裏切るようでできませんでした。

それに、私は真実を知るのが怖かった、父から拒否されるのではないか、と。

全ては小さな誤解から生まれたこと。

それが少しずつ大きくなり、もう後戻りできなくなってしまったのでしょう。

ボタンをかけ違えてしまったのはきっと、父と母の離婚から。

父と母の離婚の真相は。。。

今でも誰も知らないそうです。

父も母も誰にも語らずにこの世を去ってしまいました。

父は死ぬ前に母にも会いたいと思っていたようで、2人は引き裂かれてしまったのかなぁ、とも思います。

離婚後に母が単身で父に会いに沖縄に行ったことがあるということも、何か思い残すことがあったからなのでしょう。

うちの母は箱入り娘で育てられ、大学の時に学生運動で出会った父が自由奔放で素敵だと思ったのでしょう。

そんな父に惚れて結婚したようです。

父は統合失調症を患った母を支え、私が生まれるまでの間、そしてその後も母の世話をしてくれました。

困っている人を見ると放っておくことができない優しい人だったようです。

母を守りきれなかった父

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Photo by Ingo Joseph on Pexels.com

ただ、会社勤めが体に合わなかった父は、紹介された会社も1年そこそこでやめ、その後も定職に就くことはなかったそう。

そんな父の姿が、祖父母から見たら不安だったのかもしれません。

可愛がってきた娘を苦労させられない!と思ったのかもしれません。

祖父母は、母をもとの箱に戻すことが母の、私の幸せだと思ったのかもしれません。

これらは全て憶測にすぎません。

それでも、叔父から聞いた若かりし頃の母の姿は生き生きとしており、私の知る母とは違いました。

父と、父の家族との自由奔放な生活を楽しんでいたのではないか、そんな風に思えました。

人生は何が正しくて、間違っているかなんて、わかりません。

たられば、の話をしてもどうしようもありませんが。うちの祖父母が母をもう少し信じてあげられていたら、今とは違う形だったのかもしれません。

そうしていたら、今の私はフィンランドにはいなかったのでしょう。

沖縄で海女さんにでもなっていたかもしれません。

まさに人生は小説よりも奇なり、です。

それでも。祖父母がいたからこそ、私は苦労せずに今まで生きてこれました。

そう考えると、祖父母には感謝してもしきれないのです。

父が沖縄に辿り着くまで

叔父の話では、父は離婚後も定職につかず、どこかで日雇い労働のような形で働く毎日だったそうです。

お金が貯まれば日本一周のツーリングに出る、とまさに自由奔放な人生を送っていたようです。

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Photo by Valentin Antonucci on Pexels.com

その後、沖縄に戻ってやはり自分の住む場所はここしかない、と定住を決めた、のだと。

その後も困っている人を見ると放っておけず、体の不自由な女性を介護しながら10年以上連れ添っていたそうです。

私が訪れたアパートにもひとりではなく、連れの方と最後まで一緒に暮らしていた、と。

それを聞いただけでも父の人生がひとりぼっちではなかったのだと、安心しました。

元気だった頃の父

沖縄の海にダイビングをしたり、魚を捕まえて実家に送ったり、とにかく海が何よりも好きだった父。

私の海好きは父から来ているのかもしれません。

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叔父も沖縄には何十回も足を運び、子供達も父と一緒にダイビングを楽しんでいたようです。

息子さんはダイビングの魅力に取り憑かれ、現在は海外でダイビングスクールもしているとのこと。

父の導いた道が、ほかの人に受け継がれているのかと思うと心が温まります。

父は彼らを見て、私の姿に重ねていたのかもしれません。

叔父の持ってきた父の写真を見て、親子なんだなぁ、と感じました。

母に似ていると思っていましが、父の顔を見て、私は父似なのだとわかりました。

もしも、私が授章式の写真に写っていたら、父もすぐ私に気付いたことでしょう。

私だけが知らなかったこと。。。

そして何よりも驚いたことは、叔父・叔母も、さらには従兄弟たちも、皆私のことを知っていた、ということ。

母と一緒に小さい頃、私も父母に連れられて新潟に行ったことがあるそうです。

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結局のところ、知らなかったのは私だけだったのです。

もっと早くに連絡を取ってれば。。。

それでも、叔父から聞いた全ての話が、私の知らなかった話。

祖父母が私と母を守ろうとした箱で、父の話は歪んで存在していました。

私自身もそれを知るすべもありませんでした。

全ては遠い過去の話です。

父は最後まで定職につくことはなく。

私に連絡を取るのが恥ずかしかったのではないか、と聞きました。

お互いのことを想いながらも、運命が私たちを最後まで引き合わせてくれませんでした。

父の最期。。。

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Photo by Mariam Antadze on Pexels.com

胃を全摘出しましたが、その時点で腹膜に転移がひどく、もう手遅れの状態だったようです。

自分の命がもう長くないことを悟っていたのか、入院する前にはアパートも引き払っていました。

一緒に暮らしていた連れの方は、父なしでは生活ができる状態ではなく、娘さんのところに引き取ってもらったそうです。

最後を過ごした病院の期間はほんの1ヶ月ほどだったようですが、その時に母や私の話をしていたそうです。

最後の2ヶ月間の写真は痩せ細っていて、昔までの生き生きとした面影はありませんでした。

見るのも辛い写真ですが、父の辿った道を私も目を背けずに向き合わなければいけないのだと。そして息子にもこんなにも愛してくれた父がいたのだと伝えなければいけません。

そして夏にはもう一度沖縄に行って、最後に父が過ごした病院での話を聞きたいと思います。

最後は、優しい病院スタッフに囲まれて幸せに旅立てたのではないかな、と思います。

思いも寄らなかった結末

当初、戸籍から想像していた、孤独死・自殺からはかけ離れていた父の最期。

多くの人に愛され、看取られていたのでした。

調べてみて、良かった。想像だけでしか存在しなかった父が、今は肉づき、形をもって私の前に現れました。

父の生きているうちに駆けつけることはできませんでしたが。

5年後の今、やっと辿り着けました。

夏には家族を連れてお墓参りにも行くつもりです。

お墓の前で父とゆっくり話ができれば。

大好きだった海の見える場所に、父は眠っています。

purple crocus in bloom during daytime
Photo by Pixabay on Pexels.com

父へ、母へ

きっと2人は今ごろ天国で会っているかもしれません。

難しい時代に生きていたからこそ、離れてしまったかもしれない2人。

今度こそ、ハッピーエンドで幸せに暮らして欲しいと思います。

そして、父にも母にも伝えることはできませんでしたが。

私をこの世に産み落としてくれてありがとう、と言いたいです。

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最初、父の所在を調べ始めた時はこんな結末は想像してもいませんでした。

今は、新しい親戚ができました。

祖父母とはまた違う系統の、気取らない自由奔放な叔父を見て、自分のルーツはここからも来ているのだとしみじみと感じています。

そんな叔父に父が預けたMDカセットの数々。

私が持っていた方が良いと言われ、そのうちのいくつかを引き取ることにしました。

父が毎日のように聞いていた、思い出のカケラがもうすぐ我が家に届きます。

その中から私が知れるのは、父が好きだった曲と手書きの文字だけ。

それでもジーンと胸が熱くなるのです。

父が繋いだ縁

父が繋いでくれた新しいご縁をこれからも繋げていきたいと思います。

red flower on white sand
Photo by How Far From Home on Pexels.com

そして、この父捜索を始めて気付いた、亡き父への感情、愛情。

人から愛されていると感じることがこんなにも温かいのだと、心が満たされるのだと、気付きました。

これからは父の愛情を疑って日々を過ごすこともありません。

それだけでも、自分の中の気付きなのだと、信じています。

今回の父の人生を追う旅は、父の声に呼ばれたような気がします。

偶然の沖縄旅行だけではなく。

戸籍の附票の保管期間は5年、今年の3月がちょうど5年目でした。

もし、今調べていなかったら辿り着かなかった真実かもしれません。

複雑に絡みあった糸が上手くほどけて、父に出会えました。

明日3月9日は、5回目の父の命日。

やっと辿り着けた父へ再びありがとう、と伝えたいです。

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