前回のブログでも書きましたが、今回は、現在の仕事を得た経緯を紹介させていただきます。
フィンランドの職安のシステムも10年前とは異なってはいるので、現在、実際にフィンランドで求職している方の参考にはならないこと、ご了承ください。
メディカルテクニシャンまでの道のり

フィンランド移住当初は、フィンランドで主婦、の生活に憧れていました。
それでも実際に主婦をしてみると、他に何かしたくなります。
運よくすぐに子供を授かったので、2年ほどは子育てと、ママ友との時間を楽しんでいましたが。
子供が保育園に入ってからは、昼間の時間を持て余すようになりました。
そこで考えたのが、仕事に繋がる何かをしよう!
というと大袈裟ですが、フィンランド語の勉強を再度、始めてみることにしました。
フィンランドの職安経由で仕事を探す学校に通うと、給付金が支給されます。
子供がいるかいないか、子供の数によっても違いますが、ざっと600ユーロ程度はもらえていました。8万から9万というところでしょうか?
給付金をもらいながら、勉強、そして職業訓練が含まれていました。
そして訓練先に選んだのは薬局。

自身、日本では薬剤師の仕事をしていたので、何か薬関係の仕事には就きたいと考えていました。
学校を卒業した後に、その薬局でインターンとして続ける契約になっていたのですが。
不運にも、その薬局が火事になり、契約もなくなりました。
その後、しばらくは何もせずにいたのですが、やはり仕事をしたいと考え、職安に。
そこで提案されたのが、メディカルテクニシャンなる資格でした。
メディカルテクニシャンの学校への入学

日本では馴染みのない、メディカルテクニシャンの資格。
フィンランドでは薬剤師さんは処方箋を持ってきた人への服薬指導、もしくはドラッグストアで扱っている薬やその他の商品の説明をする仕事です。
フィンランドの薬局は日本のように調剤薬局ではなく、全ての薬局がドラッグストアーのタイプ。
処方箋を扱っていて、それ以外にも処方箋なしで買える薬から、その他、色々なもの。
例えば、包帯や傷の手当てをするものから、歯ブラシなどの歯関係、耳栓などの耳関係、さらには化粧品まで幅広く扱っています。
そして、ペット関連のものも売っているから、薬剤師やメディカルテクニシャンはそれらの指導もできなければいけません。
薬局では、メディカルテクニシャンは薬剤師以外が行う業務を行う、といういわば雑用担当。
薬が医薬品の卸会社さんから届いた時に、納品、棚出しをする作業。
そして、レジ業務が主になります。
そして、薬剤師の指導が必要ない商品についての説明をすること、などです。
日本では医療事務の資格に近いのかもしれませんが、処方箋の入力やレセプトの業務はしません。
簡単に言うと、医薬品担当が薬剤師、それ以外がメディカルテクニシャンの仕事、となるわけです。
いざ学校へ入学

フィンランドではメディカルテクニシャンの学校は専門学校に分類されます。
中学卒業にストレートに行く場合は3年間。
以前に高卒以上の学歴があれば2年間で済むというもの。
自身が受験したのは2年コースでした。
実際の試験に関してはフィンランド語、算数、物理、でした。
算数はありえないほど簡単な計算問題でしたが、物理は苦手分野なので、ちんぷんかんぷん。
フィンランド語に関しても散々な結果だったと思われます。
それでも、算数ができたということ、そして専門学校ではある程度の移民を受け入れなければいけないこと、ということで入学が決まりました。
自分が最年長かと思って教室に入ってみると!
介護士を経験した50歳過ぎのおばさま方が数人、他の分野からの30代の方々、そして外国人5人のトータル20人。
そこからメディカルテクニシャンになるための学生生活が始まりました。
フィンランドの学校での教育法

こちらはやはり、日本とは大きく異なりました。
一番閉口したのは、口頭発表が多いこと。
グループワークで自分たちの意見を発表しなければいけないこと、などでした。
そして、フィンランド語でレポートを書くこと。
どれを取っても大変でした。
まぁまぁ、教えてもらっていることは大したことではなかったのですが、フィンランド語、というストレスが半端なかったです。
そして、テストに関しても記述問題がメイン。
レポート用紙8枚にひたすら書きまくる、というテストもありました。。。
その中でも一番嫌いだったのがこちら。
今でも悪夢にうなされる授業

あるテーマについてディベートをするのですが、その中で、議長、書記、そしてご意見番の担当を決めます。
議長は仕切る人。
書記は記す人。
そして、ご意見番はディベートが終わった時に、一人一人に、フィードバックをする人、です。
その他の人は、テーマから湧いてくる疑問をひたすらポストイットに書いて、そこから話し合いをするのです。
と言ってもトータル8人のグループなので頑張って発言しなければいけない感、満載です。
日本人の苦手そうな分野ではないでしょうか?(苦笑)
日本でも引っ込み思案であまり喋れないのに、言語の壁があって喋れるわけもありません。
ご意見番からは毎度のことながら、次はもっとポジティブに、というフィードバックをいただいておりました。
初回に参加した時点で、先生にこの手の授業は無理だからやめさせて欲しい、と泣いて頼んだ記憶があります。
それでも、先生は、頑張ってみなさい!の一言。
とりあえずこなした教科でしたが、今でも思い出に残る、しんどかった日々です。。。
フィンランド教育の素晴らしさ

フィンランド人はこういうこと、発表やまとめること、に小さいから慣れているので、本当に得意です。
この手の授業は少しでも日本にも取り入れて欲しいと願わずにはいられません。
現在の職場でもグループワークをやることがありますが、皆が率先して自分の意見を発表したり、紙に書いたりするのは、見ていて気持ちの良いものです。
何を言っても否定されることがないので、変なプレッシャーがなく、思ったことを言えるのでしょう。
それは本当にフィンランドの教育の1つで、素晴らしいと思うことです。
何も間違えなどない、全ての意見が正しいのだと、他の人を認めることがスタートです。

こちらは褒めてなんぼの教育法なので、全ての学生たちが生き生きと授業を受けているように感じます。
それも、日本に見習って欲しいと思う教育法の1つです。
日本やアメリカの方が教育のレベルは確実に高いです。
それでも、こちらの教育が優れている!と評価されるのは、個性を尊重し、伸ばす教育をしているからではないでしょうか?
フィンランドの教育全てが正しいとは言いません。
それでも、こちらで伸び伸びと育っている息子を見て、羨ましいと思わずにはいられません。
3回の職業訓練を経験して

2年の学生期間中に3回の職業訓練。
薬局が1つ目。
2つ目が現在も働いている一包化の会社。
そして3つ目が病院でした。
一包化の会社に惹かれたのは、日本の一包化のシステムと全く違ったからです。
そして、機械も日本製、ということでなんとも言えないご縁を感じました。
職業訓練後に学生として契約し、就職を約束されました。
最後の半年を終え、晴れて現在の職場に就職したのが2016年の1月。
かれこれ6年になります。
フィンランドの就職はこのように、職業訓練の場所から決まることが多いのです。
もしくは人からの紹介。
結局のところ、日本と似ています。
資格を取ってしまえば、他の職場を探すこともできますが、残念ながら、数回チャレンジした面接では良い結果が出ていません。
これから先の選択肢

また学生をする、という選択肢もありますが。
もう50近くなった現在、またフィンランド語の勉強ストレスもしんどいなぁ、というのもあります。
というわけで、ブログを始めたというのも1つの理由。
何か、他の分野で自分に向いているものがあるのではないのか?
などと考えて、試行錯誤の日々を過ごしています。
現在の職場を通じて、多くの友人、親友と呼べる人たちに出会いました。
それは本当に感謝してもし足りないほどの恩恵です。
しかしながら、また自分の日々を立ち止まって考えた時。
誇れる仕事を自分がしているだろうか?
答えは。。。
それでも、自分の人生は、自分一人のものでもありません。
再び向かう家族への愛

日本、フィンランド、家族ありきの自分です。
後悔のない人生を過ごしたい、と思います。
現在はその重みは自分のスキルアップよりも、家族と過ごす時間なのです。
仕事も待ってはくれないかもしれませんが、家族、特に日本の家族は皆、確実に老いていきます。
14年前にフィランドに来たときは知ることの無かった母の、祖父母の老い。
いつまでも元気でいるものだと疑ってもいませんでした。
コロナのこともあり、まともに家族とも会えない3年間。
結婚するまでの30年間、支えてくれた家族が少しずつ去っていくのは、なんとも言いがたいものです。

この世に生まれたからには、必ず経験しなければいけない家族との別れ。
実際に経験するまでは、現実味もありませんでした。
経験してからはなおさら、家族との時間を大切にしたいと思うようになりました。
みなさんも、家族は大切に。
いつ、何があって家族がこの世からいなくなってしまうか、分からないのですから。
手遅れにならないうちに、ひとまわり小さくなったお母さん、お父さんの肩をそっと抱いてあげてください。
それだけでも愛情は伝わるのですから。
それでありがとう!と声に出せたら、なおよろし。
親はそんな言葉を期待してはいませんが、言ってもらって嬉しくないはずがないのです。
そのとびきりの笑顔を見れば、言って良かったなぁ、と思うはずです。
最後に

何かのご縁あり、このブログにたどり着いてくださった皆さま。
ありがとうございます。
そして最後まで読んでいただき、感謝です。
自身、1ヶ月半前に母が急逝いたしました。
最後に会えたのはコロナ前、3年前の1月でした。
その後は電話で話すこともありませんでした。
いつまでも元気でいてくれると思っていたからです。
後悔してもしきれません。
日本へ緊急帰国し、最後に母の顔を見ることができました。
穏やかな優しい顔をしており、苦しまずに旅立てたのだと思いました。
また母のことについては、気持ちの整理がついてから書かせていただきます。

残された祖母の元を毎日訪れ、ありがとう!大好きだよ!と何度も声をかけました。
最後に別れる時の、嬉しそうな顔が今でも忘れられません。
自己満足かもしれませんが、それでも言って良かったと思いました。
母には手遅れになってしまいましたが、祖母への感謝は今からでも間に合います。
それでも、決して長い時間は、残されてはいません。
限りある時間に、少しでも感謝の気持ちを届けることができれば、と願っています。
このブログを読んでどこか、心に響くことがあれば、嬉しいです。
