最近思うこと

本日は独り言ブログです。
ブログについて色々調べた結果。
ブログで稼ぎたいのだったら、人々が求めることを書かないといけない、人々は答えを求めてブログを読むのだから。日記ブログは有名人でなければ誰も興味もない、ということ。
ブログで稼ぎたいのだろうか?との問いに。
答えはイエス。
稼げたらいいなぁ、という思いが無いわけではありません。
かと言って、人々が求めるだけのブログを書きたいのか?
その答えは。
ノーです。
自分勝手ですが、自分の日々思うことも書きたい!
ブログを書く理由

ブログを始めたきっかけの1つに、自分の気持ちを形にして残しておきたい、ということもあります。
だったら日記でもいいじゃないか?とも思うのですが、いつの間にか、自分の気持ちと向き合うことが怖くなってしまいました。
日記にすると、とめどもなくネガティブなことも溢れ出てきてしまいそうで。
ブログで誰かが読むのであったら、ネガティブさは抑えつつ、気持ちの整理をできるのではないかと考えたためです。
思春期の頃は日記をつけていました。
当時は何も考えずに、自分の思うことを徒然に記していましたが、ある程度歳を重ねた今、日記にするにもその前に立ち止まって考えてしまう自分がいます。何も考えずに突き進めた10代、20代の自分とは違います。
それが歳を重ねるということなのかもしれませんが。

本当の自分に100%向き合っているのか?
答えは即ノーです。
自分の触れたくない心の痛いところにはまだ向き合えていません。
かと言って、100%の自分に向き合わなければいけないのか?
それも分かりません。
まだまだ、答えを探す人生は続きます。
波長の捉え方
ブログを書く上で気づいたこと。
確かに、グーグル検索かけた時に引っかかるブログが稼げるブログなのでしょう。
ブログで稼ぐということを考えることをやめました。
他にもワードプレスをやっている方々のブログも色々読んでみました。
そこで、ふと気づいたこと。

ブログにも合う波長、合わない波長があるということ。
それが縁なのかもしれません。
どんなに素敵なことを書いてあるブログでも、自分の心には響かなかったり。
逆に、自分の求めていることがジャストフィットした方のブログは、一言一言が心に響きます。
その中でも、Donut.さんのブログはとても心に響きました。
全てのブログを読んだわけではないのですが、自分の心の欠けている、欲している部分が、この方のブログの言葉に共鳴しています。

読書のブログで、本を読むことは人との出会いに似ている、縁だ、ということが書いてありました。
私もまさにそう思います。
自分に欠けているもの
ブログと同じで本にも波長、縁があります。
たとえ、どんな高評価な本を読んでもなんだか読みにくかったり。
逆にあまり評価が良くない本であっても、ジャストフィットしたりするのです。
もちろん、評価だけで本を選ぶ基準にはなりませんが、あまりにも本の選択肢が多い今日、評価も本選びの1つの基準です。
少し話はずれますが。
漢方の考えでも、自分が欲する味は、体の一部が疲れていたり、弱っていて、体自体がその味を欲しているのだと。
読書に関しても、まさにそうなのかもしれません。
自分の心の欲している本が、自分にとって縁のある本なのかと。
自分に欠けているものが満たされることはなくとも、本の中で傷みを共感できることで、自分は一人で悩んでいるわけではないと感じるからでしょうか?
もしくはいつかは欠けているものが満たされる日が来ると期待しているからでしょうか?
それでも、人は探している過程が、一番の成長、発展なのかもしれないとも思います。
『ぼくを探しに』
シェル・シルヴァスタインさんの『ぼくを探しに』という本が好きでした。今も好きです。
久しぶりに読みたくなり、探して見ましたが、残念ながらkindle版では存在せず、単行本として売られています。(Amazonアソシエイト使用)
カケラが欠けたボクは完璧な自分を求めてかけらを探す旅に出ます。ボクが完全になってコロコロと自由に転がれるようになった時。
ボクは気付くのです。コロコロと転がっていたら、花の香りを嗅ぐこともできない。蝶が頭の上に止まってくれることもない。望んでいたまんまるの自分が完璧などではないということに。失ってみて気付いた不完全さの素晴らしさ。
そして最後にはカケラとお別れし、元の自分に戻る、というストーリーです。子供向けの絵本ですが、大人になって読むほうが、胸に深く刺さってきます。
人生もまさにそうなのかもしれません。
人生に完璧などはありません。
それでも、何か足りない自分が、何かを探し続けることが、人生の一部であるのかもしれません。
そして自分の求めていた姿になった時、失ったものの大きさにも気付くのです。
心の傷の角度
Donut.さんのブログの中で、″著者と自分の心の傷の角度が似ている本には縁がある″と書いてありました。
この表現、とても好きです。
自分が縁があると感じるのは、著者よりも主人公であることの方が多いですが、著者も作品や主人公への想いを持って書いているので、突き止めると同じなのかもしれません。
話はそれますが、昨年読んでハマった作家さん、ルシンダ・ライリーとエリー・グリフィス、どちらもノーフォークという場所に縁のある方でした。それだけでも縁という名の運命を感じてしまいます。
それぞれ、人の抱える傷の角度は違う方向に向いているかもしれません。
それでも。
この言葉が私の心を掴んで離さないのは、私の心の傷の角度がこの方と似ているのかもしれません。
残念ながら、コメントを書くことができなかったので、自身のブログで紹介させていただきます。
人との出会い

これもまさに縁です。
一生を終えるまでにどれだけの人たちに出会うのかは分かりません。
それでも、その出会いの中でとても近くなる人がいれば、人生のパートナーになる人もいます。
逆に、ぷっつり縁が切れてしまう人もいます。
居心地のいい人。
空気が合わない人は、数回会っても居心地が悪くなってしまいます。
逆に数年間、音信不通になっていたとしても、次に会った時、何の違和感もなく、分け隔てない時間を過ごせる人。
ありがたいことに、日本でも、フィンランドでも、そういう素晴らしい人々、親友に出会えました。
自分に不思議とフィーリングが合う人たちは、本と同じようにどこかで、心の傷の角度が同じなのかもしれません。
人の傷みを

この歳になれば、心に傷のない人などいません。
全ての人が、多かれ少なかれ、何かを抱えながら生きていると思います。
それでも、明るくにポジティブに前を向いていたい、そうも思います。
それでも、くじけそうになった時、涙を流してリフレッシュすることも大切です。
そして新しい明日の自分をスタートさせねばいけません。
もしかしたら、本当の絶望の淵を経験したことがないから言えるのかもしれません。

本当に辛いことに合った人は、暗闇の中から逃れようともがき苦しんだことのある人だと思います。
幸いにもなのか、残念ながら、なのか自分自身、そこまでの暗闇に飛び込んだことはありません。
そこが自分に欠けていることなのか、ダメな自分とガチで向き合わなければいけないことなのか。
わかりません。
それでも、近い友人が苦しんでいる時に、気の利いた一言、素敵な一言でも言えたら、と思うことがよくあります。
もちろん、自分自身の問題は、自分でしか解決することができないのはわかってもいますが。

それでも、自分が、少しでも人の傷みを癒せる力があれば、と願わずにはいられません。
そういう気持ちでブログを書いているというのもあります。
少しでも、このブログが誰かの心に響いたのなら、共感してもらえたのなら、それだけでも書いている意味もあるのかなぁ、なんて思ってしまいます。
最後に

昨日は息子の終業式でした。
今年度は色々トラブルも多かった年で、心配することもいつにも増して多かったのですが、学校で過ごす息子の姿を見ていたら成長を感じ、温かい気持ちになりました。
学校でも、いつもポジティブ、ニコニコハッピー君でいてくれるようで、みんなが微笑んでいる(苦笑いというところもありますが)、シーンを見た時には嬉しくて涙が出そうになりました。我が息子ながら、いい子に育った!
そして、今のクラスを支えてくれた先生とサポートしてくれた方にも感謝です。

問題も色々ある子ですが、いつでも太陽のような性格はいくつになっても持ち続けてほしいと願います。それにしても、誰に似たんだか(笑)
フィンランドの子供達ははこれから長い2ヶ月以上の夏休みに入ります。
楽しみでもあり、親としては大変だったり(笑)。
それでも、今年の夏は2年ぶりに国外に出ます!ワクワク、ドキドキです。
7月まで世界情勢が悪化したり、サル痘で国が閉鎖になったりしませんように。
世界平和を願う日々です❤️

本日も最後まで読んでいただきありがとうございました。
次のブログではご縁あった2021年の本について紹介したいと思います。
久しぶりです。本好きの人には、図書館や本屋さんに妖精がいて、その時にピッタッリの本に出合わせてくれる、と昔聞いたことがありそれを信じています。
人との出会いや続いていくご縁もそうなのかなぁ~、と漠然と思っています。
妖精や何かのインスピレーションを受け取れる、健康な心身でいられるように、それだけを心がけています。「ぼくを探しに」、懐かしいです。私も持っていました。
コメント、ありがとうございます。本の妖精、ご縁の妖精、やはり色々なものには霊、みたいなものが宿っていて、人を惹きつけてくれるのかもしれませんね。今も繋がっていてくれる皆さんに感謝ですね!